今日は「シカゴ」を見ようと、はりきってバージンシネマズにいって、チケット売り場並んで、「シカゴ見たいんです♪」っていったら、「来週からですけど」っていわれました・・・。

しょうがないから、とりあえずキャラメルポップコーン買って、ニトリ行って、ハンガー買った。

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映画、「プラトニックセックス」みた。
本のほうも読んだ。

私は、飯島愛のように、世に言われる「非行」にも走らず、風俗にも身を染めず(容姿コンプレックスがあったからだけかもしれないけど)、大学までいって、そこそこの中堅会社で総合職として働いている。

だけど、本にあった、飯島愛の気持ちは、すごく痛かった。
自分の「昔」をついついいっぱい思い出す。

最近こうゆうのが多い。
閉じ込めていた、忘れてた記憶が、何かの拍子に突然よみがえる。
悲しくなる。
いろんなことを考える。
私って、ものすごくいろんな事を忘れている。
特に嫌なこと、悲しいこと。
それがここ最近、しょっちゅうよみがえってくる。
これって何かのサイン??
それとも、悲しい記憶って封じ込めちゃいけないのかな?

私だって、誉めて欲しかった。
学校で起きた出来事を話したくって、うきうきしながら、家に帰る。
「今日ね今日ね、こんなことがあってね」と、母に話す。
「そうなんだ、よかったね」その一言だけでよかったんだ。
でもかわりにかえってくる答えは、
「それで宿題はしたの?」「テストはどうだったの?」
ほんのいっしゅんでも、私の目線に立って一緒によろこんだりして欲しかっただけ。
でもそれが得られなかった。
きっと、親からしたら全くそんなこと意識してなかったんだろう。
だけど、さびしかった。
そのうちあきらめた。
私は、プライベートでの出来事を、ほとんど親に話さなくなった。

父親は、頑固な人だった。めちゃくちゃといっていいほど。
「俺が白といったら黒でも白なんだ」
なんて、今では笑っちゃうようなせりふを平気ではいた。
母親は、典型的専業主婦だった。
「お父さんが、一生懸命働いてくれる代わりに、お母さんが一生懸命お世話してあげるのよ」
「お父さんが、家族のために働いてくれるんだから、お母さんがちゃんとあんたたちを育てるのよ」
と、よく言っていた。
だから父親は一家で「一番えらい人」だった。
食事中のテレビはは必ず彼の見たい番組だった。
他のが見たいというと、怒鳴られ、普通に殴られた。
母親からもよくびんたされた。
「あなたはこの家で一番年齢が低いの。だから最も身分が低いのよ。」
兄とケンカしても、「逃げないあんたが悪いのよ」と、かばってもらえない。
私は「身分が低い」から。
私は、そんな家族の方針に対して、はっきりと「おかしい」と感じてきた。
だけどそんな考えは認められない。
口にすれば、バトル。怒鳴られ、殴られる。
父親とは徹底的に仲が悪くなった。
何か会話すれば、即けんかになる。

いつしか、私はケンカする事を避けるようになっていた。
その方法は、ひとつ。
「父親と口を利かないこと」
だけど、夕食のテーブルは家族4人で囲む。
かぞくの会話イコール父親との会話になってしまう。
私が会話に参加すれば、会話はすぐに打ち切り、食卓はけんかの場になってしまう。
だから、食事中も私は口を利かない。
かぞく3人が、しゃべってる中、もくもくと食事を済ませ、自分の部屋へ戻る。
父親とは、月に一度挨拶をするかしないか程度だった。

母親が悩んでいたのは知っていた。
多分泣いたりもしてただろうと思う。
だけど、私は自分の考えを押さえつけることなんてできない子だった。
はっきり感じている「矛盾」「不条理」に気付かないふりをするなんて、無理だ。
せめてもの対策として、その「不条理」にひたすら黙って耐えた。

父親は単身赴任になった。
15歳のとき。
それ以降、一緒に暮らしたことはない。
母親はさびしそうだったけど、私にはよかった。
だって一緒にいなければけんかできないもの。
一年に一度会うだけなら、「おかえり」だっていえる。
「不条理」から少し開放された。

次に待ってたのは、母親とのケンカの日々だった。
兄は大学に進み、下宿生活。二人暮しになった。

とっくにあきらめてたはずの「同じ目線で、感情を共有すること」と、私はまだ求めてたんだと思う。
だけどやっぱりそれは得れなかった。
そして、そのころアトピー性皮膚炎が悪化した。
体中、そして顔まで、ぼろぼろになった。顔は赤く粉吹いて、むくんで目はまるで一重みたいになった。
「醜型恐怖症」という病気がある。
そんな言葉、当時は知らなかったけど、そうだったんだと思う。
外が怖かった。
電車に乗れば、みんなが自分を見てるように感じた。
突然恐怖に襲われて、足が震えたりした。
もう誰も私のことなんて好きになってくれないだろうと思ってた。
独りだった。辛くて辛くて毎日泣いた。
だけど、兄はもっと症状がひどかった。
みんなからの同情を一身に集め、母親も治してあげようと必死だった。
病院に行っても皮膚科医は「そんなたいしたことない」といった。
独りで、戦っていた。
夜ベットで、「誰か助けて!!」ともがいたりもした。

アトピーはそのうちよくなっていって、顔などはそれほど気にならなくなった。
家では相変わらず独りだったし、醜型恐怖症は治りはせず、やたらとコンプレックスがあったけど、それでもひどいときに比べれば、毎日が楽しかった。
そんなある日、母親が、旅行中で家に独りだったある日、私は家の前で、襲われた。
知らない男がいきなり襲い掛かってきて、レイプされそうになった。
怖くて声も出なくて、でも途中で服をびりっとはがされた瞬間にすごい悲鳴が出て、男は逃げた。

怖くて怖くて、必死で家に入って、誰か!っておもってとっさに頭に浮かんだのが、当時の親友だった。実はすぐ近所に祖母が住んでいたんだけど、そのころすでに、恋愛の話はおろか、友達のことだってろくに家族には話してなかったから、「家族にこんなこといえない」とおもった。
私は親友に電話して泣いた。

結局、そのあと祖母から電話がきたときに、まだ動揺してた私はそのことを話してしまい、警察沙汰になった。母親は慌てて帰ってきた。

警察は、「結果的には何もされてないんですよね」と繰り返し、特に何もしなかった。
それから、母親から聞いた。
「祖母が怒っている」と。
なんで、なんでおこってるの?私はすごい怖い思いをして、すごい傷ついたのに。
祖母は、私が真っ先に電話したのが、自分ではなく親友だったことに激怒していた。
そして母親もそれに賛同した。
私は、親友に電話したそのとき、別に助けを求めたわけではなかった。
ただただ怖くって、誰かの声を聞きたかったんだ。そして一番私の中で存在が大きかったのが、その親友だっただけ。
でも、そんな話、わかってもらえるわけもなかった。
「味方なんていらない。家族の助けなんて要らない」
心からそう思った。

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さみしかったんだなあ、いつも。
本当はいっぱいいろんなことを求めていたけどそんな事は叶わないし言えない。

その後も、けして家族とうまくいっているとは言えない。
今は一人暮らしなのでたまに家に帰るけど、なんだかぎこちない。
祖母も、普通に話したりはできるけど、私を嫌ってるのか、私に嫌われていると思っているのか、私がいると居心地が悪そうだ。敬老の日かなにかにプレゼントを渡したら、あとから…

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